

新しいカメラ。
Tue.31.03.2009

テスト撮影その1。Serratifolia Grace セラティフォリア・グレイス。
それが普通だとわかっていても、冬中枯れたような姿になっているから
こうして葉が出るとほっとする。
新しいカメラが来た。
ずっと使っている SONY の一眼デジカメはとても愛着があるし、日々の中にいろんな楽しさをもたらしてくれた。でも、外出のときに持って出るのはいささか大変なのも確か。このカメラは、一眼の中ではそんな重いほうではないんだけれど。そんなわけでこのところ散歩用にもっと軽いものを探していたら、Olympus の一眼デジカメに気に入ったものを発見。500g も軽い。おまけにちょっと前の型であることも手伝ってか、レンズ2本つきのキットが瞬間風速的にえっというほどお財布に優しいお値段になっていて、その場で購入を決める。
Olympus のカメラを手にしたのは初めて。ボタンなどのデザインがクラシックで、子供の頃に父が持っていた一眼カメラをうんと小さくしたみたい。当たり前だけれど、操作の仕方がまったく違うから戸惑う。SONY は直感的に操作できたけれど、こちらのカメラは1つ1つの機能を確かめていく必要がある。最初はちょっと不便に感じたけれど、段々逆にそれが楽しくなってきた。
撮ってみて、ずいぶん違う写真が撮れることに驚いた。空気感ということばがあるけれど、カメラってそこにあるものだけじゃなく、空気を切り取るんだなあ。一台目のSONY のカメラは、硬質でどこかひんやりとした光、エッジの利いたぴりっとした空気が切り取れるところが好きだった。このOlympus は、ふわっとした、どこか遠くで眺めているような光の切り取り方をしてくれる。ウェファースのように間に一枚空気の層をはさんでいる。その違いが面白くてたまらない。しばらくこのカメラに夢中になりそうだ。

テスト撮影その2。寝起きのたんぽぽさん。 この凝視に弱いわたし。

火遊び。
Mon.30.03.2009

マッチいろいろ。
ずっと手つかずのままになっていた家の前の草原に家が建って、部屋の中に夕暮れが来るのがほんの少し早くなった。それはつまり、ゆらゆらと揺れる炎が映える時間が長くなったということで、このところとみに灯り好きになっている。
火をつけるものは、断然、マッチ。(そもそも、スイッチを押しさえすればいいもの以外は、ライターを点火すること自体出来ない。)マッチの中でも、この頃蝋マッチに凝っている。カウボーイ映画の中で、男たちがブーツの底でぱっと擦ってつける、あれだ。点けるにはちょっとコツがあって、わたしが使っている細軸のものは力の加減で折れてしまうこともある。でもやっぱり、折れにくく質実剛健な感じの太軸よりも、細軸のマッチの方が点けるときに優雅だとひそかに信じている。火の点きかたにもメーカーや種類によって癖のようなものがあって、ついつい何本も擦ってしまう。そういえば、擦った瞬間に立ち昇る独特な香りがなんだか懐かしい感じで、しばらくマッチを擦るたびにどうしてだろうと考えていたが、ある日ふと思い出した。それは、小学校の薬品庫の匂いなのだった。
ある種の人(わたしだ)にとってはネクロノミコン並みに危険な書物、"encyclopedia of ROSES" の頁を捲る夕べ。「棘/枝」の二文字に集約できるモノクロームの冬の庭を眺めながら見る色とりどりの満開の薔薇たちの写真は、すぐそこに初夏が来ることを幻視する危険さだが、初々しい緑が芽吹き、今にもどこかに蕾が現れそうなこの時期に目の前に立ち現れる魅力的かつ家にない薔薇の名は、呷ってしまいたくなるような甘美な毒に等しい、すぐ手の届く危うさを孕む。そばの書棚に置いてあるナーセリーのカタログにもその名があれば、危険は倍増。とはいえなぜか庭には、Eliza Boelle という去年まではなかったはずの一株がある・・・

あと10年で100年ものになる銀のヴェスタ。
ようは、マッチ入れ。
底のこの凹凸が刻まれた溝で、蝋マッチをぱっと擦って火をつける。
でも、不器用なわたしは
現在の成功率50%・・・(だめじゃん)

White。
Sun.29.03.2009

上にも下にもヒヤシンス。
庭を歩いていた下駄のつま先のその先に、黒い土の上に沈丁花の白い花が散りばめられたように落ちているのを見つけた。小人が芸術的センスを発揮して総出で並べたみたいだ、と思いながら眺めていたら、風に乗って強い香りが届く。白いヒヤシンスの鉢に植えた白いヒヤシンスが咲き始めたのだ。
白いヒヤシンスの香りには、南国の花のむせかえるような芳醇さとあでやかさ、そして早春のぴりっとした鋭さがある。百合やチューベローズの甘さの奥に感じるのと同じ鋭角さ。まだ寒さの残る大気を押し返す濃厚なその香は、ようやくゆっくりと動き始めた春の庭を一気に目覚めさせようとしているかのようだ。
イギリスからの荷物を受け取りそこねて、ポストに不在通知を見つける。手にとってみると、差出人名が「外国様」になっていた。がいこくさま。千と千尋に出てきそう。がいこくさまは、たぶんちょっと黒っぽくて、たぶんちょっとかくばったかたちをしている。
夕方の光の中、ニルギリを飲みつつ David Hamilton の "La Danse" を眺めて陶然。ソフトフォーカスで捉えられたかろやかな純白のチュチュの重なり合い、朝霧のような白のワンピースにかすかに浮かび上がる脚の曲線、真っ白なレースに透ける肌の輝き、重力なんてないみたいな跳躍。肌が見えている写真よりも、ドレスを纏い、夢見るように遠くを見つめながら踊っている写真の方がずっと官能的。

光っているみたい。

時間。
Sat.28.03.2009

巡る。
ドイツ人のお友達、それに彼女の赤ちゃんに逢いに行く。
目を見張ってわたしを見つめている赤ちゃんの瞳から目が離せない。澄んだブルーグレーの瞳は、別の瞬間には墨色を宿した深いグレーに変わり、外に出ると空の色を映したかのように蒼が引き出され。どこかでわたしはこの引き込まれるような透明さを知っていると思ったら、作品になってくれたばかりのスターサファイアなのだった。桜色のふっくらほっぺのこの子と、地底の底でひとしれず生まれたひんやりとした鉱石が、同じ生きた色を宿している。そのことが、思いがけず舞い落ちてきた羽根のようだ。
このお友達は、わたしに最初にリトアニア語を教えてくれた大切なひと。出逢い、ドイツに帰国するときに別れ、長い何年かを経てまた東京で再開できたこと。それも楽しげに手を振り回している赤ちゃんと一緒に。最近、時の重みとかろやかさ、そして過ぎていく、ということの慈悲深さを思う。
ことばというのは、もちろん語彙や文法や話術という側面もある。でも波長が合うということには、その枠をいきおいよく飛び越える力がある。彼女とは出逢ったときから不思議なくらいリズムが合った。こういう最初の肌触りのような感覚は、まず間違えることがない。ひさしぶりに長いおしゃべりをしながら白金の植物園を歩く。長い年月を重ねてきた樹々の、れんがみたいに分厚い樹皮に手を触れながら。巨大な植物たちの中で、自分たちが小さく小さく縮んでいくような感覚が心地良かった。
赤ちゃんを抱き、やさしく話しかける彼女、いくつもの国を渡ってきた彼女の背を見つめながら、わたし勉強しよう。と思う。なにかができるようになるためにではなく、窓を開けるため、そしてその先の、果てのない、尽きせぬものを知るために。
夜、古書店で出逢った htwi の No.11、鉱物王国と題された一冊を読みながら身もだえ。中学生のわたしのスクラップブックの中心には、小林健二さん作の PSYRADIOX の写真が燦然と輝いていた。そして、ああ、遠方結晶交信機・・・

新月のお引越し。
Fri.27.03.2009

青の世界。
なんとか、やりとげた、気が。
あとはこれから、これから。

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